翌朝。

朝食をすませ、町中のお店で自転車を借りると、行く当てもないまま、南に向かってこぎ出した。

雨安居明けの祭りを終えたばかりのラオスは、雨期とも乾期ともいえない曖昧な季節の中にある。ビエンチャンと同じように、朝方の空には雲がたれ込めている。こんな天気こそ長いサイクリングにはうってつけなのかもしれない。朝から強い陽射しを浴びていたらすぐに参ってしまう。昨日のように、夕方には雲も去り、素晴らしい夕日と対面できるはずだ。

あちこち寄り道しながら、ゆっくりペダルを回していく。やがて、大きな舗装道にぶつかった。首都ビエンチャンに至る幹線道路だろう。自動車やトラックが猛スピードで通り過ぎていく。が、それもときおりのこと。それらが去れば、たちまち穏やかなカントリーロードの素顔を取り戻す。

左右には田んぼの深く豊かな緑が広がっている。奇怪な形の山が静かに見下ろしている。

しばらく走ると、橋のそばに、大きな絵を見つけた。戦後の内戦の模様、おそらくは、現政権へとつながるパテート・ラオ(ラオス愛国戦線)の活躍を描いたものであろう。

今でこそ穏やかに映るこの国も、その過程で多くの血が流された。フランスによる植民地化、日本軍の侵攻と支配。戦後の独立に伴う激しい内戦、さらに、冷戦下には米ソの代理戦争による修羅場と化した。

バンビエンのはずれに、あきれるほどだだっ広い敷地がある。今はバス乗り場となっているその広場は、軍事空港の跡である。アメリカ軍が憎き共産勢力であるパテート・ラオを爆撃によって根絶やしにするための拠点として利用したものだ。また、ジャングル戦に慣れないアメリカ軍は、山岳民族のモン族を兵士として訓練し、前線へと送り出しもした(これが内戦後のモン族の悲劇へとつながる)。さらに、ベトナム戦争中、北ベトナムから南ベトナムへの補給路、いわゆる「ホーチミン・ルート」を断つため、ラオス、そしてカンボジアの対象領内に大量の爆弾を秘密裏に投下しまくったのである。その傷跡は今なお生々しく残されているし、不発弾による被害も依然として後を絶たない。

そんな忌まわしき軍事拠点であったバンビエンの境に掲げられたこの大きな絵。ラオス独立への血と栄光の歴史を決して忘れることなかれと刻まれたものなのだろう。それと同時に、ゆるゆるな旅を満喫しているぼくのような旅行者に、その傷が今なお癒えていないことをも静かに示しているような気がした。